旅の空でいつか

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逃げる・4

  1. 2012/08/16(木) 21:50:34|
  2. ★完結★ 『逃げる黒』
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※作品一覧はコチラです


みなさまこんばんは、春です。
『逃げる黒』4話目です。

 ※1話目はコチラです
 ※2話目はコチラです
 ※3話目はコチラです
 ※『ハミングライフ』はコチラあたりです

次でラスト!

どうぞ《続きを読む》よりおすすみください。


***************


少年を見かけたのは、夕暮れ時を過ぎたあたりの時間だった。
スーは今、町の中央にある公園で、手押しの車にパンと飲み物を積み、売り歩く店の手伝いをしている。
店が混むのは休日が主で、平日であれば昼の前後の時間が勝負だ。

勝負時を過ぎ、おやつの時間を過ぎ、
終業後帰宅するまでの小腹を満たすために寄る客達の数もまばらになって、
そろそろ1日の仕事を終えるというところだ。

公園の水道で調理に使用した器具たちの下洗いをしていたところで
その少年の姿に気がついた。
枯れた藁のような色の、けれど指通りのよさそうな毛並みをした小さな頭が
ベンチでちょこんとうなだれていた。
年齢は10歳ほどだろうか。
近くにある学校指定の服と鞄とを身につけている。
学力と財力との両方がなければ入れない学校として有名なところだ。
スーがこの町で、この公園での仕事をはじめてからもう、しばらくになる。
だから、生徒達の下校の時間がもう、少し前に過ぎてしまっていることは知っていた。

気にはなったけれど、放っておいた。
友人か家族かとの待ち合わせか、
勉強に疲れた頭を休ませるための時間つぶしか。
おそらくそんなところだろうと思った。

けれどスーが店の片付けを終え、
近日中に食べてしまわなければ傷んでしまうような余りの商品を袋いっぱいにもらって宿に帰ろうとすると
視界の中に、また、少年の姿が入って来た。
すでに夕闇は深まって、街灯がなければ人やモノの姿をハッキリと見ることもできないような時間だ。
少年は、夕時に見かけたのと同じベンチに、同じ格好で座っていた。
近くの街灯がちょうど少年の座るベンチを照らしているので、目立つ。

「……」

少年の年齢を考えれば、もうそろそろ帰宅しているのが一般的な時間だ。
少し考えて、スーから声をかけた。

「おい」

呼ばれた少年は、ぎくりとしたようにスーの顔を振り仰いだ。
スーは正面から近づいて来たというのに、
まるで声をかけられてから初めて存在に気づいた、というような驚き方だった。

「え、……なに」

「なに、じゃねぇよ。
 もう真っ暗じゃねぇか。子どもは家に帰る時間だろ」

「え、え?
 ……本当だ。帰らなきゃ」

スーに言われてきょろきょろと周りを見渡し、
やはり、言われて初めてその暗さに気づいたというような言葉をつぶやく。

これは危ない。
少年の様子を見て、スーは思う。
ぼーっとした子ども、と言うには、少しばかり度が過ぎているように感じた。
面倒な子どもに声をかけてしまったかな、という多少の後悔の気持ちと、
声をかけてみて正解だったのではないか、という気持ちとが織り交ぜになった。

「……お前、何かあったの?」

「え?」

少年の目が瞬間、揺れた。

「だから、お前、夕方から? もっと前から? ずっとぼーっとしてたろ。
 何かあったのかって聞いてんだよ」

その目の動きで
何かあったんだな、とスーは確信を持ったけれど
尋ねられた少年はゆらゆらと、今度は表情全体を揺らすように何かを思案しはじめて、
結局、首を振った。

「……何でもない。ボク、もう帰らなきゃ」

そうしてそのまま、勢いよく立ち上がって走るように去っていってしまった。

「おい!
 ……暗いからな、気をつけて帰れよ!」

スーは少年の背中にそう声をかけたが、少年は振り返ることもしなくて
声が届いているのかはわからなかった。


そんなことがあって
次の日からスーは、自然、夕暮れ時になると公園の中に少年の姿を探し、視線を巡らせるようになった。
けれどあのベンチにも、公園のどこにも、少年の姿を見つけることはできなかった。
集団で下校する、少年と同じ服と鞄の生徒たちの姿を見かけるとその中にも姿を探してはみたけれど
やはり、少年は見つからなかった。

気にはなるけれど、もう見かけることもないかもな。
10日程が経ち、スーがそう思い始めていたころ
また、あの少年があらわれた。
初めに見かけたときと同じ夕暮れの時間に、
同じベンチの上で。

「……」

先日と同じように店を閉め、
器具の下洗いをすませ、余った商品をもらって、
それから闇に浮かぶベンチに視線を向けると、やはりまだ、あの少年がいた。
少年の方も先日と同じ、
俯くように地面を眺めていて、夕暮れ時から僅かも動いていないように見える。

けれど今日は、先日とは違っていた。
だからスーは再び、声をかけた。

「おい」

少年は、今度はゆっくりとスーの顔をあおいだ。

「あぁ、この前のおじさん。こんばんは」

おじさん、と呼ばれたことに少しだけ驚きを覚える。
まだ30にもなっていないのに、と思うけれど
自分がこれくらいの少年だった頃を思い出せば
20代後半の男なんて、たしかに「おじさん」だったような気もする。

「よく会うね」

「よく、じゃねぇ。2回目だろ」

「奇遇だね。また会うとは思わなかった」

「嘘つくな。お前、オレに会いに来たんだろ」

確信を持ってスーは言った。
前回と同じベンチで、同じように、少年は座っていた。ずっと。
ぴくりとも動いていないフリをして。
けれど。

「……バレちゃったか」

「見てただろオレのこと」

少年はこの日、時折スーに視線を送っていた。
スーの様子が気になって仕方がない、といった風情で。
スーは気づいていた。

「イヤだな、どう声をかけようかって、けっこう考えてたのに。
 おじさん勘がいいんだね」

「逃げてる身分だからな。人の視線には敏感なんだ」

逃げている、という言葉を
わざと少し強調して言ってみた。
思った通り、少年は食いついて来た。

「え、そうなの?
 何から逃げてるの? おじさん、悪い人?」

「追われてはねぇよ。悪い人に見えるか?」

「知らないよ。まだ2回しか会ったことないんだから。
 わかんないから聞いてるんじゃん」

今日は、先日のようなぼうっとした様子ではなかった。
少年の口ぶりはなかなかに生意気なものに聞こえて、
少しイライラとして、少し楽しくなった。

「悪いヤツが、自分のこと正直に悪いヤツだとか言うと思うか?
 会って2回の何の義理もない“おじさん”が、
 聞いたことに何でも素直に答えてくれるとか思うなよ。甘えんな」

また、生意気な返答があることを期待して言った言葉だったが
聞いた少年はまた瞳を揺らし
目に見えてしょぼくれた表情になった。

(あ、しまったな)

思った時にはもう遅く、
少年は傍らに追いた鞄を掴んで、また走って帰りそうになった。

「おいおいおい、悪かった、待てって」

去ろうとする少年の腕を掴むのは、間に合った。

「悪かったよ。だから、そんな顔すんな。
 オレに何か言いたいことあって、今日来たんだろ。
 ここでずっと待ってたんだろうが。
 聞いてやるから、ほら、座れよ。な」

「……何の義理もないのに、聞いてくれんの」

ぶぅたれたような顔で少年は言う。

「何の義理もないから、オレを選んだんだろ?
 聞いてやるつもりで、オレだってお前に声かけにきたんだ。
 悪かったよ。
 義理がないとか、そういうの、お前は気にしなくていい」

少年はゆっくりと頷いて、静かにベンチに座り直した。
鞄を置き直したその逆側にスーも腰掛ける。

「……」

けれど座ったきり、少年は無言になってしまった。

何かとても言いたいことがあるのに、
とても言いたいことだからこそ、それをどう話していいのかがわからないのだろう。
そんな表情だった。

自分の時は、どうだったか。
スーは遠い昔のことを思い出しながら考える。
昔、世話をしてくれていた人間たちはそんな時、どうしてくれていたか。

思い出して、実践してみた。

「食うか?」

余り物で、もう少しのぬくみも残っていない
ぎゅうぎゅうに詰め込んでもらったパンを1つ、差し出してみた。
カタチの悪いあんぱんだったけれど、
少年は「へんなカタチ」と笑って受け取ってくれた。
上品に一口の大きさにちぎって食べる少年の様子を見て、
やはりあの学校に通うだけのことはあっていい育ちをしているのだな、と考える。

パンを食べ終わってしまってから、少年は言った。

「……最近さ、学校がイヤなんだ」

「ほう」

スーもパンを齧りながら言う。
カレーパンだ。冷めて、周りの衣の滓もしっとりしてしまっているけれど、
少し辛いルーがうまいのだ。

「何で嫌なんだ」

少年は黙ったまま、
鞄の蓋を開けてスーに見せた。

「あー……」

中に見えた教科書は、ぐちゃぐちゃに汚されていた。
これどうしたんだよ、とは聞かない。
自分でするわけもないし、
何かの事故にしては鞄が綺麗すぎた。
誰かにされたに決まっている。

「別に、教科書ならいいんだ。お小遣いで自分でも買えるし。
 買いなおしてもまたすぐこうなるから、
 面倒になっちゃってもうこのまんまにしているけど」

オレなら「いい」だなんて言わないけどな、とも思ったけれどそれも言わなかった。
それは、当時の自分には「お小遣いで自分で買う」なんて余裕がまったくなかったから、ということもあったのだけれど、
買い替えるだけの環境にあるかないか、というのが問題ではないのだ。
そうできる環境にあろうとなかろうと、
他者に、こうして自分の意思に反して自分の物を汚されるというのが
不快でないわけがない。
理不尽に対する怒りも、悲しみも、あるだろう。
その感情すら麻痺してしまうことだって、あるけれど。

「……最初は、別によかったんだ。
 ちょっとからかわれるとか、ボクの声が聞こえないフリして笑ってるとか、
 そう言うのが時々ある程度だったから」

よくはないだろう、という言葉も飲み込んだ。
言いたかったけれど言わなかった。
それも、少年が一番わかっているはずだ。

「でも、最近は、それだけじゃなくて」

言って少年は、
今度は自分の洋服をはだけて見せた。
ズボンの裾からシャツを出して、腹をまくって見せたのだ。

「ひどいな」

くっきりと、痣が見えた。
鮮やかな、まだ腫れと熱を持っていそうに見えるものもあれば、
元の肌の色に戻りそうなものもある。

「これ、最近てほど最近でもないだろ。
 治りかけのもある。いつからだ?」

少年が答えたのは数ヶ月前で、もう、1つ前の季節だ。

「誰かに言ったか?」

少年は首を振った。

「言えないよ」

「まぁ、そうだよな」

スーの言葉に、少年はため息をついて俯いた。
スーもため息をついた。

困った。
どうしたらよいのだろう。

この先、どうするのがよいのか。
いくつかの方法と情報とが、スーの頭の中にはあった。
けれどそれらを選ぶには、少年の気持ちを確認する必要があった。
少年は今、何を、どうしたいと望んでいるのか。
どの方法も情報も、それを確認しない限りは使うことができない。でなければ意味がないからだ。
そしてそれを「聞き出す」ということが、スーは苦手なのだ。
だから、困った。

少年は黙って俯いている。
スーも黙って俯いてしまいそうになって、
(いやダメだろう)
と思い直す。

面倒になりそうなことくらい、わかっていて自分から声をかけたのだ。
ここで自分も黙っていたのでは、何も変わらない。
変わらないどころか、よくない影響を、この少年に与えてしまう。

この少年は、意を決して、自分に話しかけようと思ってくれたはずなのだ。
きっとそうだ。
だってこれは、明確な救難信号なのだから。
それで何もせず、何も言せず困ったままで帰してしまったのでは
この少年はおそらく、学んでしまう。
信号を出しても何も解決しない、無駄だ、ということを。
その学習の先にあるのは明かりの射さない暗闇だけだ。

自分がずっと、少年についていてやれるのであれば、それでもいいのかもしれないとも思う。
解決の道筋を示してやれないとしても、
決して離れず、手を離さず、近くにいてやれるのであれば。
少年の居場所の1つになれるのであれば、それでも。

けれど、そういうわけにもいかない。
スーは旅人で、
期限は決めてはいないけれど、この町に永住するつもりはないのだ。
少年が育つ、もしくは学校を卒業するまでの数年間の短い期間でさえ、居続けるつもりはない。
少なくとも今はまだそう考えている。

だから、スーはあらためて腰を据えた。
苦手でも、するしかない。

「お前、親とは仲いい? 悪い?」

「えー……悪くはない、と思う。
 いいんじゃないかな。
 ケンカはするけど、とうさんのこともかあさんのことも、まぁ、好きだよ。
 親子だしね」

よし、とスーは頷いた。
ケンカもして、仲がいいという理由に「親子だしね」と素直に答えられるのであれば
関係はかなり良好だと見ていいだろう。

「親に言えないのは、あれか、
 自分がこんなんなってるって知られたら親が悲しむからとか、
 そういうことか」

「まぁ、それもあるよ、もちろん」

“それだけ”ではないのか。
仲がいいのに「親に言えない」ケースというのは、
大抵はそれが理由だと、聞いたことがあったのだけれど。
「そんなに仲のいい親なら、言ってくれないほうが辛いだろう」とか
「もう気づいていて、お前が言ってくれるのを待っているかもしれないぞ」とか
そういった言葉を封じられてしまったような気がした。
“それだけ”だったとしても、これらの言葉がどれほど通用するものなのか、
悲しむような親を持たなかったスーにはますますわからなかったが。

「別の理由があるのか。何で、言えないと思ったんだ」

わからないなら、聞いて確認していくしかない。
矢継ぎ早な質問に聞こえてしまわないよう注意して、ゆっくりと問いかけた。

「……」

けれど少年は黙り込んでしまって、それ以上の言葉を聞けそうにはなかった。
質問を変えてみた。

「お前、学校通い続けてるんだよな?
 オレならサボりそうなもんだけどなぁ」

仕方ないよ、と少年は言う。

「だって、サボったりしたら学校から家に連絡行っちゃうじゃん」

「そういうものなのか」

「そうでしょう。おじさんの学校はそうじゃなかったの?」

「いや、オレお前くらいの時学校とか行ってねぇし。わかんねぇ」

少年はスーの言葉に驚いたようだった。
そういう反応は初めてではなく、むしろよくあることだったのでスーは気にしない。

「あ、じゃあアレだ、教師はどうなんだよ。
 お前のことに気づかないの? 相談とかそういうのはしないのか?」

少年は少し考えてから言った。

「どうだろう。……たぶん、気づいてるとは思うよ。
 何か様子がヘンだなぁくらいはね。それ以上はわかんない。
 気づいてても、あの人達に何ができるのかって言ったら、
 それもボクはわかんないし。
 相談もしてないよ」

「なんで相談してみないんだ、……ってそうか、
 したら家に連絡行くかもしれないからか」

「うん、それもあるけど、……」

少年は言葉を区切って、
また、黙り込んでしまった。

「前にも、似たようなことがあったんだよ。
 その時は、ボクじゃない子が……嫌な思いをしていた。
 教師はやっぱり、何もしなかったし。
 それにその時はボク、……」

黙り込み、押し込めている言葉の中に答えがある気がした。
それを聞き出すことが鍵になる。確信のように思った。

だから、迷ったけれどスーは言った。

「言え。
 オレみたいに、お前の名前も知らない他人に喋れる機会は、
 もうコレを逃したら二度とないだろう、ってくらいの覚悟決めて、言ってみろ。
 せっかく他人なんだから、遠慮することはない」

それでも少年は黙っていた。
せかさず、けれど離れず、スーはただ待った。
そんな時間が少し過ぎてから、彼は言った。

「……おじさん、他の人に言わない?
 言わないって、約束できる?」

そんな約束はできない。
少年の話の内容によっては、動かざるを得ないと判断するかもしれない。
そう考えたけれど、スーは頷いた。
必要だと考えた時に嘘をつくことくらい、なんということもないとスーは思っている。

スーが頷くのを見て、
それでも少し沈黙を持った後で、少年は言った。

「オレは、逃げちゃダメなんだ」

「あ?」

聞き返したスーに少年は言う。

「前に、似たようなことがあったって言っただろ。
 その時は、オレも、そいつにイヤな思いをさせた」

「……」

少年は続ける。

「別に殴ったりとか蹴ったりとか、直接したわけじゃないよ。
 でも、そいつがそうされてた時、オレは何もしなかった。
 何もしなかったどころか、みんなと一緒にただ、見てた。
 話しかけられても無視した。
 そいつが泣いたり、だんだん普通に喋れなくなったり泣くこともしなくなったりしてくのを、笑って、見てたんだ」

なんで、という問いはしまった。
なんでも何もない。
少年の、もしくは他の生徒たちのそれらの行為に悪意があろうとなかろうと
そういうものなのだろうと、スーは知っていたからだ。

かつて自分が、生まれた国のとある町でゴミにまみれた暮らしをしていた頃、
自分の周りの人間も、そんなものだった。
自身もゴミのようなものだったのは確かだったが、
その後、人間らしい生活をするようになってからは
町の人間たちの態度が一変したことを、スーは覚えている。
ひとりひとりと話してみれば、誰も彼もたしかに「いい人」たちばかりで
その、不自然な落差を自然に行う人間達の姿に不思議を覚えたことを
スーは忘れていない。

「他人」の「集団」なんて、そんなものなのだ。
ひとりひとりの性格も意思も脇にやられてしまう不自然な自然が、そこには確かに、ある。

「オレはだから、逃げちゃダメなんだ。
 自分がやられるようになってわかった。
 ここでオレが逃げたら、何も変えないまんま逃げたら、
 またきっと同じことが起きる」

「お前の前の人間は、その後どうしたんだ。生きてるか?」

スーの問いかけに、少年は泣きそうな顔をした。

「……わかんない。たぶん。
 転校して、家も引っ越して行っちゃった。
 その後アイツがどうしてるかは、もう、わからないんだ」

それなら大丈夫かもしれない。
思ったけれど、言わなかった。
それが楽観的すぎる希望だということもわかっていたし、
大丈夫だったのだとしても、それを言ってこの少年に安心のようなものを与えてもいけないとも思った。
悪気があろうと、なかろうと、
少年の責任は、少年が負っていくべきものだ。
その荷を重くすることも軽くすることも、自分がすべきではないと思ったのだ。

ただ、言えることもある、と思った。

「……で、お前、“逃げない”でいたところで、
 どうにかできる見込みはるのか?」

少しの間の後、少年はゆっくりと首を振った。

「ダメかもしれない。……それで、困ってるんだ。
 最初は、ケンカみたいなこともできたんだ。
 教科書汚されて、ふざけんなって言ってやり返したり。
 最初に背中蹴られたときは、ボクだってやり返したり、してたんだ。
 でも、最近はダメなんだ。
 ボクがやり返してた時は、周りのみんな、
 かばってはくれなかったけど、見てるだけだったんだけど。
 でも最近は、わ、笑ってるんだ。
 前のヤツの時と同じだ。
 笑われたら、もう、ダメなんだ。
 ボクは自分も、してたから、知ってる。
 だって、笑えるって、……みんな、ボクがそうされても当たり前だって、そう思ってるってことだ。
 慣れちゃった証拠だよ。
 そうなっちゃったら、もう、ダメな気がするんだ……」

少年は静かに泣き出した。
声はあげず、涙だけが頬を伝って行く。
その姿を見て
よし、とスーは頷いた。
そして言った。

「ならもう、いい」

え、と少年が顔をあげる。
これなら自分も、自分の知っている範囲で「効果がある」と聞いていた言葉をかけられそうだと、スーは判断した。
だからスーは、その少年の表情を受け流した。

「こう考えろ。
 いいか。もう、無駄だ。
 お前が今のまま学校にいても何にもならない。
 解決も改善もしない。
 周りの連中は、もう“慣れ”ちまったんだろう。もうどうしょうもない」

一度涙のおさまった少年の瞳がまた泣きそうに揺れる。

「……だったら、どうすればいいんだよ」

ニヤリと笑って、スーは言う。

「逃げちまえ。諦めろ。
 今のお前にできるのはそれだけだ。
 だからまず、それをしろよ」

スーが笑ったのと対照的に、少年はまた泣き出した。

「そ、んなの……できないよ」

「なんでできない」

次から次へと溢れ出る涙をごしごしとぬぐいながら少年は言う。
言わずにいた方がいいと思っていた言葉たちも、今なら言えるとスーは判断した。

「お、親にバレちゃう」

「バラせ。きっと助けてくれる」

「心配かけたくない」

「それも諦めろ。
 仲いいんだろ。きっと様子がおかしいことくらい、もうバレてる」

思い当たる節もあるのだろう。
少年は一度言葉を区切ってから、続けた。

「でも、ボクが逃げたら、また同じことになる。
 今度こそ、なんとかしなきゃ……アイツに悪い……
 アイツに申し訳が立たない」

アイツ、というのは
少年がかつて周囲の人間と一緒になって苦しめていたという、引っ越してしまった人間のことだろう。
申し訳が立たない、だなんて
変なところで変に律儀なヤツだな、と思う。

「気にすんな。
 いや、気にはしろ。悪いことしたって思ってんなら、
 ずっと気にして、ずっと後悔しろ。
 でもな、お前が逃げるか逃げないかと、そのこととは関係ない。
 お前が逃げようが逃げまいが、ソイツには何の得も損もないだろう。
 だって、もう今は近くにいないんだろ?」

「そうだよ、アイツにはもう今、何もできないんだ。
 だから、ボクも逃げて、……そんな、簡単に楽になっちゃダメだ」

「お前が逃げなかったくらいで、学校でイヤな目にあい続けたくらいで、
 ソイツにしたことが許されるとでも思うのか?
 そんな簡単なもんじゃねぇだろ。
 甘えるのも、自惚れるのもやめとけ。
 でな、お前が逃げたところで、ソイツには何の害もない。
 だから、それは気にすんな」

「……」

言葉をなくし、袖口で涙をおさえるだけになった少年にスーは言う。

「逃げろ。まずは。
 ちょっと休んで、力がたまって、
 で、気が向いたらまた学校にだって帰って来たらいい。
 お前がそんな弱ってんじゃどうせダメなんだ。
 周りの人間変えるなんて、そんなことほとんど不可能だ。難しいことだよ。
 それでもそれをしたいっていうなら、
 力ためて、まずは自分の状況を少し変えないとな。
 それからじゃなきゃ、できるもんもできねぇよ」

スーが「そうだろ?」と聞けば、少年は顔を隠したまま、ゆっくりと頷いた。
「だから、まず逃げろ。わかったか?」と言えば、少年はまた頷いた。

けれどスーにはわかる。
少年はきっと、わかっていないだろう。

今、自分と話して、
自分の口車に乗せられるようにして「たしかにそうかもしれない」と、「一度逃げたほうがいいのかもしれない」と、
そう考えたのは事実かもしれない。
けれど自分と別れて、
帰り道で1人になって、
家の明かりとおそらく笑顔で出迎えてくれるのだろう保護者の姿を見て、
今の少年の想いが揺らがない、とは思えなかった。

スーは、逃げている身だ。
だから知っている。
「逃げる」ことは、意外と難しいのだ。

逃げてもいいのだろうか、という思い。
まだもっとできるのではないだろうか、という思い。
逃げたが最後もう戻ってこられないのではないか、という思い。
そして「どうして自分が“逃げる”なんてことをしなければならないのか」という思い。
“逃げる”という行為は、
後ろ暗い、みじめに負けた人間のとるものだと、そう言われがちだ。
それを「どうして自分がしなければならないのか」という悔しさと、プライドのようなものが邪魔をする。
プライドなど捨ててしまえばいいのだろうけれど、
けれどそのプライドは何か、失ったらもう二度と取り戻せないもののように感じられるのだ。
取り返しのつかない、失ってはならない大事なもののように。
一度「逃げたい」と思っても、
そんな思いに絡めとられて、なかなか足を動かせないものなのだ。

けれど、逃げたから、知ってもいる。
逃げたっていいのだ。
捨ててしまったと思っていた、失ったはずのプライドの穴の痛みは
食いつないでいくための行為の忙しなさに紛れてやがて消えて行ったし、
落ち着いてみれば、大事なものは何一つ、失ってなどいなかったことにも気づけた。
穴だと思っていたその奥底に、ちゃんと残っていた。
自分にだって逃げない道はあっただろうし、そちらの方が正しかったのだろうとも思っているけれど、
当時は、逃げなければきっといられなかった。
逃げず迎え入れられる自分をきっと、受け入れられなかっただろうから。

まだできる、と思っているうちが逃げ時だ。
もうダメだ、と思った時にはきっと、逃げることすらできなくなっているのだから。

一度逃げたところで、戻れないなんてことは、おそらくない。
逃げ切るまでは、だって放っておいても追ってくるのだ、向こうから。
忘れることはできない。
スーはまだ逃げ切ってはいない。だから追われている。過去を思う自分自身に、だ。
つかまってしまいたいと感じてもいる。
追ってくる過去の姿はいつも、明るくて、やさしいから。
だから逃げ切って、戻れなくなることもまた恐ろしいのだ。
それもまた、事実だ。

ただ、少しずつわかってきてもいる。
戻れたら嬉しいだろう。
けれど戻れなくても、自分はやっていけるだろう。
逃げているうちに自分はすっかり大人になって、力もついた。
かつて与えられたたくさんのものたちも蓄えられている。
理不尽なことがあってすり切れそうに消耗しても、
蓄えられたそれらがまた、立て直してくれるのだ。
そして何があっても、
一度蓄えられたそれらは、少しも損なわれることはない。

そんな、柱のような、養分のようなものを
この少年もきっともう、十分に与えられて育って来ている。

だからまず「逃げる」ことさえできれば、きっと大丈夫だと思うのだ。
だからまずは逃げてみて欲しいと、スーは思う。

けれどそれをうまく伝えられる言葉を、スーは持っていない。
それがもどかしい。

「おい、お前、紙とペンかせ」

まだ鼻をぐずぐずとさせている少年が
ゆっくりと鞄からそれらを取り出した。
手渡されたそれに、スーはいくつかの場所の名前と連絡先とを記していく。

「あのな、これ、とりあえず逃げ場所な。
 家にいるんでもまぁいいとは思うんだけど、
 それもなかなかしんどいなーみたいな時に、行ける場所。
 自由な学校みたいなところ。いくつかあるから、
 気になったらまぁ、好きに選べ。
 腹が減ったら食い物ももらえるぞ。国が金出してるから無料だ。
 もとはお前の親とか、お前が買い物した時に払ってる金でできてるモンだからな、
 遠慮せず使い倒せよ」

「そんな場所あるんだ。
 おじさん、なんでこんなの知ってんの」

「オレが昔世話になってた人がな、
 なんかそんな感じのヤツ作りたがってたんだよ。
 ちょっと違うけど、系統としてはたぶん、そんな感じのヤツ。
 オレのいた国には、まだ、そういうのはなかったんだ」

「あれ、おじさん、他の国から来た人?」

そう言えば話してなかったな、と気づく。

「まぁな。何か問題あるか?」

「別に」と少年が答えるので、会話は特に広がらない。

話せることは話した、と思う。
離れたところにある時計を見れば、もうけっこうな時間だ。

「お前、ちゃんと親に話せるか」

「たぶん」

少年は頷いたけれど、
それはどうだろうな、とスーは思っている。
難しいだろう。
きっと、すごく。
けれどもう、これ以上スーには提供できる情報も、してやれることもない。

「もう遅い。……子どもは家に帰る時間だろ」

だからそう言って、少年の帰宅を促した。
「そうだね」少年は鞄を掴んで立ち上がる。

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

「うん。ありがとねおじさん」

そうして去って行く少年の背中は、
すぐに夜の闇に紛れて消えた。

***

それから数日が経った。

少年の姿はあの夜以降見かけていない。
昼の時間にも、夕闇の時間にも。
どうしていたのか、
どうにかできたのか、できなかったのか、気になっていた。

だからその日、
まだ日の明るい時間に少年がやって来てくれた時には嬉しかった。

「おじさん!」

声をかけられたのは、
人混みの途絶えた、昼を大分過ぎた時間に昼食をとっていた、その時だった。

「おー、お前……そうして見ると、ちょっと雰囲気変わるな」

「そう?」と首をかしげる少年は、今日は制服も着ていないし、重そうな鞄も抱えてはいない。
シンプルだが、上等そうな布でできた明るい色合いの洋服を着ている。

休憩の時間らしいとわかっている少年は、遠慮なくスーの隣に腰掛ける。
あの夜、2人で話をしたベンチだ。

「学校、どうした」

「あの次の日、とりあえず休学届け出した」

「親にはちゃんと話せたのか」

「うん。ていうか、もう言うしかなくなってた。
 ……あの日、帰りが遅かったからさ。
 最近あんた様子おかしいわよ今日もこんなに遅くて、て
 すごい心配されててさ。
 言わなきゃ怒るか泣き出すかしそうな感じで。
 やっぱ言いづらいなー言うのやめようかなーとか帰るまでは思ってたんだけど、
 迷う暇もなくてね、言っちゃったよ」

そうか、と頷いてスーは笑った。
そういう親で、よかった。
この少年は運がいい。
いい親に恵まれたし、
いい親であっても、これだけタイミングがよくそろわなければ
やはり、少年は何も言えなかっただろう。

「よく、決めたな」

スーの言葉に、再び少年は首を傾げた。

「だって、覚悟がいっただろう。
 オレの生まれたところは、学校行くのはこの国みたいに
 義務みたいにはされてなかったから、
 行かないヤツもそう少なくはなかったんだよ。
 でも、こっちは違うだろう。
 それにお前の通ってたところなんて、相当いいとこじゃねぇか」

「まぁね。入るのにけっこう勉強したよ。
 一回入って無事に卒業したら、もう将来の成功は約束されたようなもの!
 みたいな学校だったからね」

「その学校を休んで、もしかしたらこれから辞めて、
 一度いたのとは違う道で生きていくのは、
 残念だけど難しいことも多いしな、それをする覚悟が必要だっただろう。
 まぁ、それでも“逃げろ”って、オレは思ってたわけだけど」

「残念とか難しいとか、今さら言わないでよ。
 なんであの日に言ってくれなかったのさ」

「言わなくたって想像くらいしてただろ、お前頭いいんだから」

まぁね、と少年は笑う。
それから少し考えて、言葉を続けた。

「……逃げたら終わると思ってたんだ。いろいろ。
 しんどいのもストップするけど、それ以外の、将来みたいなヤツも。
 学校に行って、ちゃんと卒業しないと、ちゃんとした仕事できないだろうし。
 だから今我慢して、そのレールの上にいないときっと死んじゃうって。
 そうも思って、やっぱちょっと怖かったよ。
 でも、もう仕方ないよね。
 我慢できないで今身動きとれなくなっちゃったら、どうせ終わりなんだもん。それじゃあ意味ないし。
 それに、おじさんが逃げ続けてるの見たら、そういうのもアリなのかと思って。
 今はまだ、ちょっと、誰に会うのも怖いし。
 かあさんにもとうさんにも、ぼくがいじめられるような人間だなんて
 知られちゃって、やっぱちょっと辛いんだけど。
 あ、だからさ、何かいろいろ教えてもらって助かったよ!
 家にいるのしんどい時は、そこ行くようにしようと思って。
 あんな真っ当な逃げ場みたいな施設、あるんだね。よかった」

「あぁ。逃げるのは、お前自身だけどな。
 逃げろって言うのと、逃げ場所用意すんのは大人の仕事だから」

やるねぇ大人、と少年が笑って言う。
笑顔が生意気そうでスーは嬉しくなる。

「とりあえず、お礼言おうと思って今日は来たんだ。
 本当はもうちょっと早く来たかったんだけど、何かバタバタしててさ」

「気にすんな」

「ありがとね、おじさん。
 ねぇ、またここ遊びに来てもいい?
 学校行かなくなったから、ちょっと暇でさ。
 みんなが学校行く時間とか帰ってくる時間は、ここにいて見つかっちゃっても嫌だから、それ以外の時間で。
 おじさんは何時くらいなら暇なの? これくらいの時間?」

「昼飯の時間は忙しい。
 それ以外は、休憩の時間はバラバラだからな、わかんねぇや。
 来たい時に来たらいい。オレも暇だったら相手くらいはしてやるよ」

へへ、と笑って
「じゃあ、また」と少年は帰って行った。
去って行く背中が、公園の先に消えて行くまでスーは見送った。


けれど少年のその背中を見ながら、思う。
そろそろ、この町を出よう。
また旅に出られるぐらいには金もたまった。

少年はまた、自分を探しにここに来てくれるかもしれないけれど
会う必要はないだろう。
話し相手は自分でなくてもいいはずだ。
彼に必要な環境も条件も、もう少年の手の中にあるのだから。

少年は、運が良かった。
かつての自分と同じだ。
決める力を持っていて、言葉が届くうちに届けられて、
それを受け止めてくれる人間が身近にいた。

庇護する存在がもし、少年に存在していなかったとしたら
自分はどうしただろうかとスーは考える。
答えはまだ見つからなかった。
その時がきたら、また考えればいい。考えるしかない。それはわかっていた。

そんなことを考えながら
スーはまた、逃げるための旅路に向かったのだった。



(to be continued...)


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