旅の空でいつか

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逃げる・2

  1. 2012/08/09(木) 21:46:15|
  2. ★完結★ 『逃げる黒』
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※作品一覧はコチラです


みなさんこんばんは、春です。
『逃げる黒』更新です。

全5話で完結。今夜は2話目ですね。

 ※1つ前の話はコチラです。
 ※『ハミングライフ』はコチラです。


それにしても今夜は、オリンピック女子サッカーの決勝戦ですね!!

ということで、
コレをアップしたら今夜はもうおやすみなさいです。

開戦時間にちゃんと起きられますように……!!


ではでは、
どうぞ《続きを読む》よりお進みください*^^*



***************


その女が店内に入って来たのは、もう明け方近くの時間だった。
この店では、スーの仕事は基本的には昼の時間、遅くとも日付が変わる前までの時間に行うことが多かったが、
旅の合間の、短期の雇われの身というのはなかなかに立場の弱いもので
雇い主から乞われれば、日暮れから明け方までの時間に勤務に入ることもあった。
レストランなんて、朝からせいぜい夜食くらいの時間まで開いていれば十分だろうとスーは思うけれど、
この規模の街の大きさともなると、どうやらそうもいかないらしい。

「……あれ、ハミィじゃないか?」

客の少ない辺りのフロアを一緒に磨いていた仕事仲間の男が言った。
ハミィというのはどうやら、今しがた店に入って来た女性の名前らしい。

「有名人なの?」

「スーは、そうか、このへんの育ちじゃないから知らねぇか。
 ガラス灯地区の花形さんだよ」

「へー」

「あれがねぇ」とモップを動かす手をとめて、スーは女性に目をやる。
ガラス灯地区とは、要は花街だ。
他の区域とは違った街灯の使われているその地区は、そのせいで足を踏み入れればすぐにそういった場所なのだと知れるし、
地区の中にいる間は、女性と言えばみな、身体のどこかしらを強調したような服装をしているのだが、
今のハミィは、仕事があけたあとなのか、こざっぱりとしたシャツと細身のパンツといった出で立ちで、
言われてよくよく見てみれば見事な体つきをしていたけれど、
言われなければ気づけない。

「あの人がそうだって、よくわかったな。
 そんなに有名な人なのか?」

スーが同僚に尋ねれば「そりゃあもちろん!」と力強い返事が返ってくる。

「もう10年近く前かなぁ……
 彼女、どっかからふらーっとこの街にやってきてさ。
 当時はただの家出少女って感じで、
 何か野良猫みたいにそこらをうろうろしてたんだよ。
 まぁ、金もなくてちゃんとした家も借りられなかったんだろうな。
 ここの花街もさ、ほら、独特の規律みたいのあるから、
 ふらっと来て働かせてくれっつっても入れてくれないし。
 で、そこらで勝手にそんな仕事始めちゃったんだよ。
 すぐ警衛士に見つかってつかまって、
 でも出てくればまた仕事はじめてまた見つかって、って、そんなんの繰り返し。
 ほらまた商売してるよーって、何か風物詩みたいなもんだったんだけど」

ハミィが手をあげた。オーダーだ。
別の店員が彼女のテーブルに向かっているのを横目に確認してから
スーは同僚の話の続きを聞く。

「その、数年後かな、花街の方から彼女にスカウトみたいの入って、
 そんで、花街の中でもでっかい店の子として仕事するようになったんだ。
 そっからはもう、彼女の無双!
 店でちゃーんと磨かれたハミィは、もう、圧巻だよ。
 元々、どっかでけっこう勉強してたみたいだとかなんとかで、
 頭いーい人たちに人気でちゃって。
 ほら、そういう人たちって金持ってるヤツ多いだろ。
 そいつらみぃんな、彼女の奪い合い。
 店も彼女に逃げられちゃたまんないだろうから、無理な仕事のさせ方もしないしで、
 なかなか予約もとれない盛況ぶり。
 それがもう、何年も続いてるんだよ。いやぁ、衰えねぇなぁ」

「……この街の人間は、みんなそんなにあの女のことに詳しいのか?」

「そりゃあもう。ある意味、憧れの女性だよ」

そう言えばここの花街には顔を出したことがなかったな、となんとはなしにハミィを眺めつつ考える。
そのハミィの元に飲み物が運ばれた。店員からグラスを受け取るところだ。
と、
「!」
ハミィがたしかに、スーに視線を向け、そして
ガシャン。
グラスが落とされた。

「すみませんお客様!」

自分が手元を滑らせたのかと、グラスを渡した店員が慌てて謝罪の言葉を口にする。
「いいの、大丈夫」
濡れた洋服を渡されたタオルで拭き取りながらハミィは言う。
謝っている店員に呼ばれ、ちょうどモップを持っていたスーが向かった。
隣にいた同僚は羨ましそうにスーを見送る。

「すぐに、新しいお飲物をお持ちします」

そう言って、グラスを落とした、と思い込んでいる店員が下がった。

「……」

ハミィはわざと、グラスを落とした。
それはたしかだとスーは思っていたけれど、だからどうということもない。所詮安物のグラスだし、濡れた床なら拭けばいいだけだ。
無言で片付けにあたるスーにハミィが声をかけた。

「ねぇ、あなた、ここの街の人じゃないわよね。
 お店でも街中でも、最近まで見かけたことなかったもの」

「それが、何か」

「少し、話をしたいの。今お時間とれないかしら?」

コレは、そうか自分を呼ぶために起こしたことなのだとスーにもわかった。
面倒くさい客だな、と思った。

「仕事中なんで」

ハミィは少し、考え込んでいる。

「……あの、初対面ですよねオレら。
 話しかけられる理由がわからないんですが。
 話し相手が欲しいなら……ほら、そこのカウンターのヤツらとか、
 あんたと喋ってみたいって顔してこっち見てるだろ。
 あぁいうのに声かけたらいいんじゃないすか」

新しいグラスを持って、再び店員がやってきた。
オーナーを引きつれている。

スーが彼らの場所をあけると、オーナーと店員はハミィに頭を下げた。
グラスを落としたくらいで、なんとも仰々しい。
しかもそのグラスを落としたのは彼女自身だというのに。
場所をあけたまま、そのせいでモップの手をとめてスーはそんなことを考える。

(……あぁ、こっちもわざとか)

頭を下げるオーナーの顔つきは、どこか少し嬉しそうなものに見えた。
同僚は、ハミィは“憧れの存在”なのだと言っていた。
ようはオーナーも、これはハミィに近づくチャンスだと思ったのだろう。

何てくだらない茶番なのだろうとスーは思う。
こんなのに付き合っている時間が、無駄に思えて仕方がない。
いつもならとっくに眠ってしまっている時間だというのに。

性的なものに興味がないわけではなかったし、ハミィの体つきも顔の造作もそれは見事だとも思うけれど、
スーは元々、体つきにそれほどのこだわりも持っていないし、
顔の造作ならハミィよりも格段に美しい存在をスーはいくつも知っている。
狭い世界しか知らないとこうなるのか、と思った。

「ねぇ、お願いがあるの」

ハミィが少し低い、微かに酒に焼けたようなよく通る声で
オーナーに言った。

「わたし、彼と少し話しをしてみたいの。
 少しの間だけ、彼を貸してくださらない?」

「勘弁してくれ」

思ったら、そのまま声に出た。
オーナーも、一緒に謝っていた店員も、モップを動かしていた同僚も、
カウンターでこちらをチラチラと見ていた客たちも、
周囲の人間が自分に注目しているのがわかった。
「え、なにアイツ」と、その突き刺すような視線が言っている。

「あの、彼が何か……」

オーナーはスーとハミィとを交互に見るようにして尋ねた。

「彼、この街の人じゃないでしょう?
 ほら、わたしも元は“外”から来たから。
 だから、少しお話しをしてみたくなったの。それだけよ。
 やっぱり、お仕事中はマズイかしら」

スーは、逃げている身だ。
追われているわけではない微妙な立場とは言え
目立つことは極力、できる限り避けたかったのだ。
こんなに注目されている存在に目を付けられることは望んでいなかった。

(くそ……)

けれどもし、ここでスーがハミィの申し出を断ってしまったら、
「あのハミィの誘いを断った」なんて言われることになって、ますます目立ってしまうのではないかと思われた。

ハミィがそんな彼の心中など知っているわけもなかったけれど、
卑怯だな、とスーは勝手に思う。

オーナー、断ってくれ、とスーは思うけれど
「でしたら、そうですね、少しの間であれば」
と、ハミィに気に入られたい魂胆のあるオーナーはあっさりとこたえてしまう。

「ありがとう」

にっこりと笑ってハミィは言った。
その笑顔は「じゃあもういいわ」と言外に伝えていて、
簡単に言えば人払いだ。

オーナーたちが去って行ってしまって、
仕方がなく、スーはハミィの正面に腰掛けた。

「ちょっと、強引すぎたかしら。
 悪かったわね。……だから、そんなに怒らないで」

「あんたと話してる時間の分、給料さっぴかれてたらどうしてくれるんだ」

多少の苛立ち紛れに言うと
「あぁ、じゃあその時間分、わたしが払うわ」と
ハミィはこともなげに言う。
そうだコイツは稼ぎに余裕があるのだった、と思い出してげんなりする。
あてこすりもできないなんて。

ハミィはスーの分の飲み物も注文しようとしたけれど、
それは断って、自分で空いているグラスを探して水を汲んでくることにした。
そうしてから再び席について、スーは尋ねた。

「で、あんた、オレと何が話したいんだ」

「ただの、愚痴」

少しだけ困ったように笑ってハミィは言った。
それから声を落として、続ける。

「……ほんとうに、ただの愚痴なの。仕事のね。
 でもわたし、この街ではちょっと有名になってしまったから、
 なかなかね、愚痴の言える相手を見つけるのが難しくて」

ため息をついてスーは頷いた。
それはわかる気がした。
長く頂上に立ち続ける街中の有名人で、
しかも元々の知人などいない街の人間の中からでは、
たしかに、愚痴をこぼせる相手を見つけるのは難しいのだろう。

「なんだ、あんた仕事やめたいのか」

「やめたいというか……逃げたい、のかもしれないわ」

またか、とスーは再びため息をつく。
スーのため息にハミィが首をかしげたけれど「いや、こっちの話だ」と言って質問はさせないで、スーは彼女の話の続きを促す。

「どう、言ったらいいのかしら……」

自分から「話がしたい」と言っていたというのに、
ハミィはどうにも歯切れが悪い。

「今まで愚痴なんて、誰にもこぼしたことがなかったから。
 いざ言おうと思っても、どう言えばいいのかわからないのよ」

そう言って苦笑している。
本当に面倒だな、と思うけれど、それほどの長い間1人で立っていた人間なのかと思えば
スーにも、ハミィに対して若干の興味がわいてきた。
だから、スーから尋ねた。

「オレは、あんたのことを何も知らない。だから1から話してくれていい。
 いつごろこの街に来て、どれくらい今の仕事してるんだ?」

少しほっとしたように話しだすハミィの言葉は、
あらかた同僚から聞いた通りのものだった。
10年前、彼女は16の時にこの街にやってきた。
文字通り「着の身着のまま」で、街にたどり着いた時にはもう、僅かの金も持っていなかった。

「わたしがこの街に来た時は、秋だったから。
 外で寝ていても寒くはなかったし、
 街の人たちから変な目で見られはしたけれど……この街は、平和ね。
 何か危害を加えられることもなくて、しばらくは、そうして生活していたの」

街の公園には喉の乾きを癒せるような設備が整っていたし、
無言でただ放るようなものではあったけれど、通りすがりの人間に食べ物も与えられた。
しかし、いつまでもそんな生活を続けようと思っていたわけではなかった。

「直に冬が来て、さすがに路上での生活は厳しくなってきて。
 羽織れるような上着も持っていなかったし、
 もらった食べ物がなかなか傷まないのは助かったけれど、
 あの時期にあたたかいものが食べられないというのは、少し辛いわね」

「そうだな」

スーもかつて、そうして生活していたことがあったから、
ハミィの言うこともわかるような気がした。

「だから、そろそろだな、と思って、仕事を始めたの。
 ここまでは計画通りね」

「……ん?」

計画通り、という言葉が耳についた。
ハミィはにこりと頷いた。

「もともとわたし、この仕事がしてみたくて家を出たのよ。
 仕事場はこの街にするんだってことも、最初から決めていたの。
 路上に住み込んで数ヶ月は様子を見て、街の人をみて、
 それで自分の売り方を考えてみなければ、と思っていて」

「おい、そこまで考えて来てるんなら金くらい持って出て来いよ!
 そんなの家借りるなり宿とるなり、
 どっか住み込んで別の仕事するなりしながらすりゃいいだろう」

意味のわからない女だ、と思った。
「それじゃあ意味がないのよ」とハミィは言った。

「わたしね、十分に裕福な家庭で育ったの。
 両親とも、今は連絡もとっていないけれど、家を出るまでは仲もよかった。
 なんの不自由もなかったのよ。だから、ダメだったのね」

「なにがダメなんだ」

結構なことじゃないかとスーは思う。
けれどハミィは首を振った。

「何の不自由もなかった。でも、それではダメだと思ったの。
 同じ国の中にいるのに、わたしが家の中で安心してぬくぬくとして、
 好きに学んで好きに暮らしている間にも、路上で死んで行く人がいる。
 路上で、足下を見られたバカみたいな値段で身体を売る人たちもいる。
 そのことは知っていた。
 それをどうにかしなければいけないとも思っていたし、
 たくさんのことを学んで、たくさんのことを知ったわたしにはそれができる可能性だってあるし、するべきだとも思っていた。
 難しいってことくらいは、知っていたのよ。
 運のいい環境に生まれ育つことのできたわたしには、
 それをする義務もあるんじゃないかとすら、思っていたの。
 学び育てて来たわたしの脳も身体も、そのために使うべきなのではないか、って。
 でも、わからなかったの。
 たとえば路上で暮らして生きて、死んで行く人たちのことが。
 彼らが何を考え、どう生活し、どう困難を抱え、何にしあわせを感じるのか。
 わからないままじゃ、何もできないでしょう。
 だから、まずはやってみようと思ったの」

「……」

あんた、最低だな。
その言葉をスーは飲み込んだ。とても気に食わなかった。

驕りだと思った。
「とりあえず経験してみる」なんて軽い気持ちで路上の生活をしてみるだなんて、
実際に生まれながらに、もしくは様々な事情で本当にそこで暮らすしかない人間たちを、随分とバカにした話だと思った。

思ったけれど、言わなかった。
自分は今、どっちから金が支払われるのかはまだわからなかったが、
仕事として彼女の話しを聞いているのだ。
仕事の目的を考えれば、彼女の考えを否定して話の腰を折るよりも、
続きを促すほうが正しいと思った。
仕事でない時間になったら、あらためて言いたいことは言いに行こう、とも思ったが。

彼女は話を続けた。

「ともかくそうして路上での生活をしてみて、だから次は、身体を売る番。
 これは半分はうまくいったと言えるけれど、半分は失敗だったわ。
 本当に、ここは平和な街だったのね。
 わたしが不用意に妊娠しないようにだとか、ちゃんとお互いに病気になったりしないようにだとか、
 客になった人たちはみんな気をつかってくれたわ。
 わたしの“サービス”に対して、相場と同程度の適切な料金を払ってくれた。
 無理に危険なこともされなかった。
 運もよかったのかもしれないわね。そういう意味では、うまくいった。
 でも、その仕事をはじめてしまってから、今度は警衛の人たちに目をつけられてしまったの。
 路上で生活しているとき、
 彼らは決して、わたしを保護しようだとか捕まえようだとかしなかった。
 まるで彼らには、わたしは見えていないようだったのに、
 仕事をはじめて目立ち始めたら、すぐに捕まってしまった。
 何日か牢に入れられて閉じ込められて、
 そこを出たらまたわたしは仕事をはじめたけれど、またすぐに捕まってしまって、その繰り返し。
 なんて不毛なんだろうと思ったわ。
 客の顔も名前も、警衛の人に聞かれても、わたしは言わなかったのよ。
 だから、ねぇ、わたしを買った人たちは、誰もつかまってないの。
 もちろん、ただわたしのお客さんになってくれただけの彼らが捕まることは、
 わたしも望んではいないのだけれど。
 でも、路上で暮らしていても助けようとなんてしないのに、
 路上でない場所で暮らそうと仕事をはじめれば逮捕してくるのが仕事だなんて、おかしいと思わない?
 だからわたし、警衛の人たちは嫌いなの」

半分はわかる、と思った。
自分の時もそうだった。
警衛の人間からは自分も逃げる立場だったし、
自分を当時助けてくれた人間は、その時は警衛士ではない立場だった。
けれど。

「そういうヤツらばっかじゃないよ」

自分も路上で暮らしていた時は、助けられなかった。
けれどただ、その時に出会えなかっただけで、
もし出会っていたら、何かしてくれていたかもしれない。
そう信じられる警衛士の人間を、スーは何人か知っている。

「そう、なのでしょうね。
 ただわたしが見つけられなかっただけで」

ハミィもそう答えた。
スーは少し複雑な気持ちになる。
「“まとも”な警衛士もいる」ことは確かに事実で、
けれど、おそらくはその数が圧倒的に足りないせいで「間に合っていない」というのもまた、事実なのだ。
そしてそうした警衛士や、もしくは警衛士でなくても、そうした存在を見つけられず、出会えず、どうにもならないことの責任は、
誰にかぶせることもできない。
それは現実だ。

ハミィは続けた。

「そんな生活を、2年程続けたわ。
 わたしは警衛士に見つからないように仕事をするのがうまくなって、
 一晩の宿とご飯を客に与えてもらうだけではなく、
 稼いだお金で部屋を借りられるようにもなった。
 そうできるようになったあたりで、ある男から声をかけられたの」

ハミィが一度言葉を区切ったので
「どんなヤツ?」とスーは促す。

「最初は、ただのお客さんだと思ったの。でも、違った。
 その人との仕事を終えた後で、花街に来ないかと誘われたわ。
 花街の中でも大きなお店の、店員さんだったの。
 迷ったけれど、わたしはその誘いを受けたわ。
 花街の中で仕事をするという経験を、わたしはまだしたことがなかったから」

また“経験”か、とスーは苦い気持ちになる。
顔にも出てしまったかもしれないが、やはり言葉には出さなかった。

「……それで?」

「花街で暮らし始めて、少しだけ、生活は変わった。
 楽になったこともあったし、不快になることもあったわね。
 部屋は個室だったけれど、同じ職場の、顔を知った人間たちばかりがみんなで暮らす建物の中での生活だったから、
 戸締まりとか、物盗りを怖がる必要がなくなったわ。
 お給料もね、店への仲介料をとられるようになったけれど、
 わたしにはもう、何人か、1人で仕事をしていたときからの固定のお客さんがいたから、稼げる金額は変わらなかったし、
 あぁ、お店で契約しているお医者様の検診を定期的に受けられるようになったのはありがたかったわね。
 そんなことしていないお店の方が多いみたいだったけれど、
 ここでもわたしは、運がよかったみたい」

「不快だ、って方は?」

「人の見る目が変わったわ」

よく、わからなかった。
1人で仕事をしていようと、店に所属していようと、
やっていることは同じなのではないのだろうか。

「店に入るまでは、わたし、哀れまれていたのよ。きっとね。
 “あんな仕事をしなければ生きて行けないのだろうから仕方がない”って。
 けれど店に入ってしまったことで、“根”のある人間だと見られてしまった。
 “根”のある人間なのに、他の仕事も選べるだろうに、なんでそんな仕事をしているのか、って。
 驚いたわ。
 花街に来ないようなお客さんや、夫や恋人がわたしの元に通っているらしい女性であれば、そう言いたくなる気持ちも、わかるのよ。
 そんなの、夫婦間なり付き合っている2人の間なりで解決すべき話だから、
 それも本当はわたしたちの知ったことではないのだけれどね。
 でも驚いたのは、そういう人たちじゃない。
 “こんな仕事を選ぶなんて”って、
 わたしたちのところに通いに来ているお客さんが言うのよ」

「……なるほど。それはなんだか、ものすごい矛盾だな」

でしょう!
ハミィが少しだけ声の大きさを上げた。

「お客さんの中には、昔わたしを捕まえた警衛の人もいたわ。
 だから、こんなところに来ていいのかしらって、聞いてやったのよ」

そうしたら彼、なんて答えたと思う?
ハミィに尋ねられたけれど、わかるわけもないので首を傾げた。

「この店は合法だからいいんだ、ですって!
 ねぇ、やっていることは同じなのよ。店のやっていることだって、本当は違法なの。
 けれど違法ではない営業形態に見えるように届け出がされているから、
 だから店でのできごとは合法なのですって。
 店は法律に守られているから捜査もしないし逮捕もしない、
 路上では違法だから逮捕する、って。信じられない!」

「……」

ハミィのこの話は、スーには新鮮だった。
法律にそうした矛盾があることも、
矛盾がまかり通っていることも、スーも知ってはいた。
けれど、それをとりたててどうと考えることもなかった。
「そういうものだ」と思っていたからだ。

「……あんたは、店を捜査させたいのか?
 それとも、路上でのことも合法にしたいのか?」

「それは難しい質問ね」

真面目な顔でハミィは言う。

「こういうグレーで、誰かにばかり都合のいい状況は、とても気に食わない。
 けれど、規制を強めればきっと、もっとブラックな市場が広がってしまうだろうっていう人たちの話もわかるし、
 路上でのことは、そうね、合法にしてもっと適切に仕事ができる環境にして欲しいとは思うけれど、
 そうすることで、路上で仕事をする人が増えることも望ましいとは言えないし。
 自分でそうしたくてするなら、いいの。わたしみたいにね。
 けれど合法になってしまったら、
 本人が望まないのにそれをさせる人たちも増えてしまうかもしれないと、思わないこともないの。
 特に、子どもね。
 非合法でも、いるのよ。当時のわたしよりもずっとずっと、小さい子ども。
 合法になってしまったら、もっと増えてしまうかもしれない」

「それは法律の作り方次第じゃないのか?」

「その通りね。
 ……けれど法律をつくっているのは、家を出る前のわたしのような、
 実態なんて、おそらく肌で知ることのない人たちなのよ。
 漏れか、もしくは“誰か”に都合のいい穴は、必ずできる」

ここまで聞いて、わからなくなった。
とりあえず経験してみる、と言ったハミィへの不快感は消えていない。
けれどたしかに“肌”で知らない人間たちに、本当に役に立つ法律がつくれるのかと言えば不安ばかりが残る。
だったたハミィの言うように「とりあえず経験してみる」ことは、
とても体節なことなのではないかと思ったのだ。
けれど一方で、じゃあ法律をつくろうとしたら、全員がこの世の中の全てを経験し、知っていなければならないのだろうか、という考えが頭をめぐる。
それでは身が持たないのではないか。
それに、
そこまでの経験をしていて、じゃあ今度は法律を作る側にその人物は本当にまわることができるのかと言えば、
そんな保障もないし、
むしろストレートにキャリアを踏んでいない分、難しいのではないかとも思う。

ハミィは、何をしたいのだろう。
どうするつもりなのだろう。どうできるつもりなのだろう。
そして、何から「逃げたい」と言ったのだろうか。

「あんた、何から逃げたいんだ」

わからないから、ただ促すのではなく、聞いた。
ハミィは苦笑して言う。

「今のお店から。
 いいお店なのよ。従業員も、来てくれるお客さんもね。
 とても得難い環境なのだとも思う」

わからなかった。

「じゃあ、なぜ逃げたいんだ。仕事が気に入らないのか?」

ハミィは首を振る。

「わからない。
 何に対して不満を持っていて、何の愚痴を言いたいと思ったんだ?」

苦笑したままハミィは言う。

「本当に、いいお店なの。
 そして、あのね、働いてみてわかったの。
 自分がこれからしたいと思っていることは、何なのか」

スーが無言のままでいるので、ハミィは続けた。

「わたしね、自分の店を持ちたいの。
 今、じぶんのいるような環境が当たり前のものとして機能するように、
 当然の制度としてカタチになって広がって、残っていくように」

「ただ経験してみただけ、じゃなかったのか」

「そういうつもりだった。
 見て、してみて、知ってみて、それから自分はまた元の世界に戻って、
 学んだことを活かしていくんだって、そう思っていた」

でも、気が変わっちゃったの。
ハミィはそう言う。

「法律って、大事ね。
 それに裏切られることもあるけれど、うまく使えば助けられることもある。
 けれど法律はツールだから、
 わたしたちの実際の生活は、そのまた外側にあるのよね。
 それがわかってしまったの。
 わたしのしている仕事が、法律的に、正しいのか間違っているのか、わからない。
 正しいって言われれば腹が煮えるくらい、店の外にはいくらでも、ひどい話は転がってる。
 間違ってるって言われれば震えるくらい、バカにされた話だと感じる。
 だから、法律としてどうなのかは、ちょっとおいておくことにしたの。
 大事なことだけれど、でもわたしはもう、この世界で生活してるんだもの。
 わたしは、今のわたしの生活水準が、
 この仕事をしている全ての人間の最低基準になるようにしたいのよ」

「……じゃあ、そうすればいいじゃないか」

ハミィが、どこまでも
行動力と衝動とによって生きている人間なのだとスーは理解した。
何かをしたいと思ったら、彼女は躊躇いなく進んでいく人間だ。
それだけの瞬発力と、自分の望む生きかたを推進していく力のある人間だ。

「やりたいことをやるためにどこかを去ることを、逃げるとは言わないだろう。
 どうして、迷うんだ」

ひときわ声をおさえ、初めて周囲を気にする素振りを見せてからハミィは言った。

「付き合ってるのよ、わたし。わたしを誘った、今の店の人と」

(……え、そこ?)

声をおさえた理由は、なんとなくわかった。
ハミィは、言ってみればアイドルのような存在だ。
それだって人間なのだし、恋愛くらいしたってなんの不思議もないのだけれど
幻想を求めにハミィの元に通う人間たちには、
勝手な要求だとわかっていたとしても、なかなかに許しがたいことなのかもしれない。
つまり、
付き合っている人間がいるなどと知れてしまったら、仕事にひびくのだろう。

「彼は、わたしが今の店で、今まで通りに店を支えていくことを望んでいる。
 わたしが独立して店を構えるということは、
 彼の残る店と対立することになるわ。競合店になるのだもの。
 目障りに思われるくらい、しっかりとした店にするつもりもあるの」

たしかにそれは難しそうな問題だ、とスーは思った。
けれどそこまで言うと、
ハミィは随分とスッキリした顔をしていた。
そうして苦笑ではなく、
楽しそうな笑顔で、ふふ、と小さく息をもらした。

「……なんだ?」

わけのわかっていないスーが尋ねるのに、ハミィが笑顔のままで答えた。

「ううん、何でもないの。
 ……あぁ、誰かに話をするのって、こんなに簡単なことだったのね。
 もっと早くしていればよかった。できる誰かを見つけておけばよかった。
 あースッキリした!」

「スッキリできたのか? え、今ので?」

うん、とハミィはからりと笑う。

「わたし、悩んではいたけれど、迷ってはいなかったみたい」

「でも、状況は何も変わってないだろう。
 何も解決してないんじゃないか」

そう言うスーにハミィは強気な笑顔を見せる。

「そうね。でも、いいの。
 もう独立したいって思ってしまったのだから、するしかないのよ。
 彼とも別れたくないのだから、だったら
 独立しても別れないですむように、その方法を考えるしかないの。
 どうせわたしにできることなんてそれしかないし、
 仕方ないのよ、だってそうしたいんだもの。
 彼もわたしのこと、大好きだしね。
 なんとかなるんじゃないかって、そういう勝算みたいなものも、あるのよ?
 そうできるように、どうにかするしかないのよね、もう。
 自分でもわかってたことだわ」

なんだよ、とスーは力を抜かれた気分になる。

本当の本当に、愚痴を聞かされただけだった。
むしろ愚痴ですらない。
ただの思い出話と、聞きようによってはただのノロケだ。

「はー、スッキリ!」もう一度言うと、ハミィは伝票を持って席を立った。

「仕事中に悪かったわね。
 でも、本当にありがとう。話せたおかげでふんぎりがついたわ」

「……役に立ったならなによりだ」

ため息をついて、ずっと存在を忘れたままでいたグラスを口に運ぶ。
中の水はもうぬるくなってしまっていた。

去りかけた、一度背中を見せたハミィが思い出したように振り返った。

「そう言えば、ねぇ、あなたわたしのことイヤなヤツだと思ったでしょう」

言われて、むせそうになった。

「……正直、そうだな」

「なんでだかも、わかるわよ。
 わたしが家を出て、とりあえず、で
 路上で生活したり身体を売ってみたり、そういうのが気に食わなかったのでしょう」

図星なので、頷いて言った。

「興味半分のとりあえずの経験、なんてな、
 なんてバカにした話なんだと思ったよ」

「わかるわ、その気持ち。
 わたしも昔、そう思っていたから」

わかるわよ、と言われて
スーはわからなくなる。

「じゃあ、なぜそれをするのをやめなかったんだ。
 バカにしたり、見下したり冷やかしたりするのが本意じゃないんだろ」

「考えを変えたのよ。
 ねぇあなた、路上じゃないどこかで暮らしたいと考えて、とりあえずそこに住んでみようって思うことは、その土地の人のことをバカにしていると思う?
 思わないでしょう。
 じゃあなぜ、それが路上だというだけでダメなことになるのかしら?」

「望んで路上に暮らすヤツなんていない。
 あれは、危険の多い生き方だ。あんたは運がよかっただけで」

「たしかにそうね。ねぇでも、じゃあ危険のない場所なんて、あるの?
 “普通”は自ら望む者のいない場所には、住みたいと望んではいけないの?
 そこに暮らすことを望んでいなくても、そこでしか生活ができなくて、
 そうして生活し続けている人たちはたくさんいるわね。
 路上でない場所にだって、どこにだっている。
 けれど、そういう場所で暮らしたいと思う人がいてはいけないかしら?」

詭弁だ、と思った。
けれどスーは言い返せない。

「身体を売ることだってそう。どうしていけないの?
 あれは、正確には身体を売っているんじゃないのよ。
 受け取る対価の分、決めた時間の中でなら、いくらでも夢を見させてあげる。
 わたしがしてるのは、そういう仕事。
 別に誇りはないけれど、捨てたもんでもないわよね、とも思っているのよ。
 サービスを売っているの。
 適切な対価をもらって、適正なサービスを提供する。
 それだけのことよ。他の仕事とかわらない」

「でも、他の仕事よりも危険とか、不快なこととか、多いんじゃないか?」

「それは、そうね。
 けれどそれは、そういう危険や不快を
 “当たり前に我慢するべきことこと”にしてしまっているのが悪いのよ。
 リスクや不快は取り除いて、その上で仕事に望めばいい。
 それなら、他の仕事と同じでしょう?
 仕事自体が悪いんじゃないのよ」

一度言葉を区切ってから、
鮮やかに笑ってハミィは言う。

「とりあえずでしてみることがバカにしてる、だなんて、
 そっちの方がバカにしてるんじゃないかって、思ったのよ。
 そんなの、特別視しすぎなのじゃないかしら、って」

ハミィの言ってることが正しいとは思えなかった。
間違ってはいないように聞こえるが、そんなものではないと思うのだ。

「……」

けれど、そういう考え方もあるのかもしれない、とは思った。

「わたしは、思うの。
 バカにしてるというのはね、どうにかしなきゃと思っていて、
 これは違うって思っていて、そうだと知っていて、
 それでも何もせずに見ていること。
 自分には関係のない世界だから、自分には自分の世界があるから、
 自分は自分の生活でいっぱいだから、って、そう言ってみないフリをして。
 一緒の暮らしをしてみたいと思ったら、してみればいいのよ。
 偉そうだとかなんだとか、考えているその事自体が偉そうだと、わたしは思うわ」

言うだけいって、ハミィは去った。

ハミィの背中を見ながら思い出す。
自分はかつて、助けられた人間だった。
助けた人間たちは、そうだ、いろいろなものを惜しまずにそれをしてくれた。
自分にそれをしてくれたとき、
彼・彼女らから「偉そう」な素振りなど、感じなかったはずなのに。

自分も随分と凝り固まった、捻くれた考えをするようになってしまっていたのかもしれないと、スーは思う。
ハミィの言ったこと、していること、考え方が正しいとは思わない。
ただ、そういう考え方もあるというのも事実で、
彼女のおかげで、自分は自分のことを考え直す機会ができた。

助けられた自分は、
けれど誰かを、助けたことがあっただろうか。
逃げる手伝いをしたことは、幾度となくある。
けれど。

「……」

考え始めたけれど、
考えてもすぐに答えは出ないだろうことはわかっていたので、
スーはすぐに考えるのをやめた。
これも逃げているのかもしれないけれど、今はまだそのタイミングでもないのだろうとも思う。
いつか逃げられない、そのタイミングがやって来たら、
その時にまた考えればいい。

それに今、自分はまだ仕事中の身なのだから。

ハミィが去ったことに気づいてオーナーに呼ばれた。
これから彼女と何を話したのかだとか、いろいろ尋ねられるのだろうと考えると辟易した。
付き合っている相手がいること以外は、洗いざらい喋ってしまおうと思う。
面倒なことは嫌いだ。


立ち上がり、オーナーの元へ向かいながら思う。
そろそろ、この街を出よう。
また旅に出られるぐらいには金もたまった。

そうしてスーは
また、逃げるための旅路についたのだった。


(to be continued...)


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